由 緒
由 緒
大原神社は仁寿二年(八五二)の創建といわれ、
三丹地方では唯一豪壮なつくりの社です。
社名の冠に「天一位」とつくのは、
京の都より天一位の方角、
乾(戌亥・北西)の方角を示しており、
都の乾を守る神として創建されたのでは
ないかと考えられています。
現在の本殿は寛政八年(一七九六)に
当時の綾部藩主九鬼(実際は上の角がない鬼の字)氏の
庇護により再建されたものであり、
当時の宮大工の精巧な技術をここかしこと
垣間見ることができます。
本殿をはじめとする、幣殿、拝殿、
摂社火の神神社、摂社水門神社、
絵馬殿は昭和五九年に京都府指定文化財に
指定されました。
社務日記には愛媛宇和島藩主世継ぎの
安産祈願をはじめ、
公家や藩主の参拝や代参が送られた
記録も残されています。
大原神社は安産の神として
広く信仰を集めています。
創建は『丹波誌』によると
仁寿二年(八五二)
三月二三日、桑田郡野々村
(現南丹市美山町字樫原)に鎮座、
弘安二年(一二七九)
九月二八日に大原へ遷座、
応永四年(一三七九)
十月十三日に社殿が整った
とされています。
しかし社伝によると創建は
仁寿二年と伝えられ、
元宮の大原神社(美山町鎮座)は
大化元年(六四五)の創建と
言い伝えられています。
大原神社には『大原神社本紀』という大原神社の縁起を書き綴ったものが5点残されており、大原神社が安産の神として信仰を集める所以として、「邪那岐と伊邪那美の神は天下万民を生み出した父母であるのだから、天下太平・国土安隠・宝祚長久・五穀能成・万民豊饒を守護すること、他所の神社に勝り、天下万民を生み出した神なので、ことに婦人の安産を守る神なのである」と記されています。
遷座については、天児屋根命が宮地を求めてここ大原山麓の水門の瀬に来られたときに、水底から金色の蛙が現れ、『私はこの水底に住んで長くこの山を守っており、嶺には白幣・青幣があり、いつも光を放っており、まさに神が鎮座されるべき霊地であります』と頼んだと記されています。
また、遷座のときの様子について、神が黄色い牛に乗って遷られ、それ故、「お釜さん」の平らな石の上には今でも牛の蹄の跡があると記されています。
大原神社は「天一位」という社号をもち、江戸時代には札にも刷り込まれていました。本紀によると、「一乾天の方位に御鎮座成ましまし、此謂を以て其位を尊て天一位大原大明神と社号を崇奉るものなり」とあります。乾の方位とは陰陽五行の方位で北西の方角にあたり、平安京から北西の方角をさします。
九鬼*氏の信仰
綾部に九鬼*氏が所領を拝領するのは
寛永十年(一六三三)ですが、
寛文十一年(一六七一)に藩主隆季から
黒印地として高三石の社領が保障されました。
社伝によると、大原神社の社殿や古記録は
明智光秀が福知山に拠ったころに
兵火に罹り消失したと伝えられ、
寛政八年(一七九六)の社殿の再建までの間に
九鬼*氏により社域が整備されました。
歴代藩主の参詣も頻繁で、
江戸への参勤の中途は
通行路でもあるため必ずお参りし、
旅の安全祈願が行われました。
明和四年(一七六七)の九鬼*隆貞の
参勤にあたっては、二月六日の四ツ時
(午前九時半)ごろに大原村へ入られ、
まず茶屋で上下百人が弁当をとられました。
殿様のお迎えとして大原村庄屋が、塩ケ崎
(大原と台頭の境付近、現大原御供田付近)
まで出向き、社参終了後、
下向の節も同所までお見送りをし、
川合組大庄屋は大原蔵の下
(お旅杉の下辺り)まで見送り、神主の和泉と
日の社祢宜六太夫は宮坂口で出迎えて、
町はずれの御蔵の下まで見送りました。
(※)鬼(実際の鬼の字には上の角がありません)
安 産 祈 願
代参の理由のわかるものはすべて安産祈願の代参で、宇和島藩伊達氏の奥方の安産折祷のための代参が送られた記録もあります。 さらに、宇和島藩の家臣横山勝左衛門からは、5月20日付で無事安産の報告の書状も届いており、安産祈願の参詣者には「守砂」がわたされ、 出産後には返納されています。
大 原 志(おばらざし)
綾部藩では、干ばつや飢餓、藩主や側室の病床のさいはかならずといってもよいほど代参を送り祈祷の執行を命じており、天保10年(1839)3月には江戸藩邸に大原神社が勧請されています。九鬼(実際は上の角がない鬼)氏の縁故によると思われる諸大名や公家の代参も宝暦年間 (1751~64)ごろから社務記録には記載されはじめ、多数の代参・寄進があったことがわかります。
現在の大原神社の本殿は、寛政8年(1796)に再建されたものです。「大原神社社務記録」には再建にいたる動きが記録されています。
天明4年(1784)に相談の上、本殿建立の願書を差し出したところ、天明5年(1785)2月に再建の許可があり、 氏子中へ再建許可の披露がなされ、同年3月の晦日には末社の大川社の上屋の棟上げが、若狭の大工2人によりおこなわれました。
4月にはいると1日に大原村の再建の奉賀がよせられ、6月には神主の兵庫と大原村の友八両人が、下川合村をはじめ郷中の村々へ奉賀初めに廻っています。
寛政4年(1792)10月6日には「地築」初めがおこなわれました。地築は、地固め・上地の造成工事をさします。「地築」の初日には「祢込」とあります。この「祢込」については、大原村のぼり・屋台、木挽より作り物、台頭より作り物、上川合より引き山、岼村より引き山、大身・加用・猪鼻からも引き出、下川合よりは「祢り物無之」、竹田三ヵ月村からは「祢り込歌ふき」、さらに綾部から200人ばかり「祢込小供かふき」、他にも黒井や水呑、近江からものぼりや「祢り込」があったとされています。
これらは、今日にまで伝わっている「練込み」のルーツにあたるものではないかと思われます。本殿の再建にあたっては大原村のみでなく、広く各地から引き山や幟、屋台が集まって、盛大に「祢り込」や歌舞伎がおこなわれた様子がうかがえます。
昔から大原神社に参詣することを「大原志(おばらざし)」と呼ばれ、現在でも俳句の季語として使われています。
「をしなべて人の心や大原志 -未得- 」(『日本大歳時記』)などにも詠まれ、特に祭礼の当日などには参詣者も多かったようです。また、元禄時代の浄瑠璃、近松門左衛門の「源三位頼政の段」にも大原志の件があり、江戸時代初期にも名が馳せていたことが伺えます。
平成14 年(2002年)には、大原神社鎮座1150年祭を機に「大原志」を現代に蘇らせようと、山内利男氏を中心として『よみがえれ大原志』として、 俳句の募集をして大原神社に掲載するとともに優秀作品の選出をおこないました。
この取り組みは、その後も毎年、5月3日の大原神社春季例大祭に合わせておこなわれています。また、「大原志」を地元でも継承しようと、俳句について学ぶ会も開催されています。
この句は、「第26回国民文化祭・京都2011」の「文芸祭 与謝野蕪村顕彰俳句大会」に投句された1万余句の中から京都府知事賞に選ばれた山内利男さんの俳句です。